■自分の「進化」を感じた最後の修行先
ずっと京都という、一流の人達が住む街でやってみたいと思っていたんです。
日本料理を極めたいと思っていて、やるからには本場の京都で修行しようと決意しました。しかし私が18歳の頃、京都の一流の良いお店は、紹介がないとはいることができなかったんです。同じく、修行をしたいと志す人間はわんさかいて、どこも料理人志願者で溢れかえってました。代わりは、なんぼでもおるわと言われた事もあります。
埼玉出身の自分には、もちろん伝手は無い、しかしどうしても懐石料理を学びたかったので、考えを巡らせ、その結果最初の修行先を金沢に決めたんです。金沢も加賀料理という城下町の文化が色濃い街。日本料理を極めるという想いを胸に、修行の世界に飛び込んで行きました。
金沢では約7年間、日本料理にまつわる一通り修行させてもらいました。そこの親方の紹介があって、然るべきかたちで念願の京都の地に足を踏み入れることとなったんです。
そして28歳の頃、「祇園丸山」に行きまして、そこでで大きな衝撃を受けます。修行人生10年目を迎え、経験があり、自信もそれなりにあったんですが、今まで培ってきたものがものの見事にひっくり返されたんです。
それまでは、仕事を誰よりも手際よくこなし、鮮やかに魚を捌き、技術を高めていく—その一点のみで腕を磨き込んでいて…料理以外は眼中に無くて、季節の生花などは女将さんにお任せしていたらいいと思っていました。丸山さんのところでは全てお店の料理人が自分でお店のことをやるんです。お軸、料理に沿う部屋に生けるお花からお香まで。お香なんか、本物です。炭に火をおこし、ガラスの板をおいて練った香をおいて、その炭の熱から香りをつくるんです。
何というか、日本料理人たる精神の核となる部分です。設えや道具から、お客さんの目に入るもの全てに行き届く視点。店主としての在り方を学びました。
ある時、夏場に冬の松葉ガニの雌を用意するようと言われて、時期でないし、それも雌なんてとてもじゃないが無理難題だと思いました。しかし、ありません。というのは通用しない。親方さんから言われたら、何としてでも用意しないとなりません。必死で、手当たり次第に漁場さんに連絡をとりまくって、運よくたった一杯あった雌の松葉ガニに何とかたどり着いたことがありました。冷や冷やしたのと、プロとしての自覚、考え方を鍛えさせてもらいました。
■飯田の最善のもてなしとは
お茶事は、もてなしの精神を究極のかたちで表しています。お軸、茶花、器などの設えや所作などはすべてお茶をいただくための前座です。本当のもてなしというのは決して重荷にならないもの。料理をいただくためのものです。
私は、お客さんが見えない所でするのがもてなしだと思っています。こちらの行っていることがわからなくていいんです。そして、伝わらなくていい。お客さんにとって心地良ければ、それでいい。目の前でのパフォーマンスはサービスだと思っています。 さりげないもので、居心地の良さを感じてもらえればそれでいいんです。
例えば、うちの玄関入ってすぐに、あじろを敷いています。夏の暑い中、お客さんに来てもらう。すると履物を脱いで入った一歩目がひんやりと気持ちいい。冬場だと鍋島の厚い手縫いの絨毯を敷き、暖を伝えます。
また、うちのお店ではカウンターに掘りごたつ式で、掛けていただくんですが、足元の板には桐を使用しています。桐は材質が柔らかく、足を置いていて緊張しないんです。ちなみに、カウンターのテーブル板は屋久杉です。少し水気を含んだふきんで拭きあげると、漂う香りが深いんです。過剰なことは言いません。そういうところではないかと思います。お店を始めて間もない頃は、資金のことを考えると、内装を全て完璧に一流のものを揃えることは出来なくて。最初、厨房の奥の棚の板は、一枚板に見えるように作り合わせて工夫を凝らしたりしていたんです。けれど、修行先で本物を見てましたから、 わかってしまう。わかっていて、それを自分がしないことは出来ない。そういう性分です。